バングラデシュ政変と植民地支配

by 池田篤史

2024年8月5日の報道によると、バングラデシュで20年以上に渡って首相を務めたシェイク・ハシナ氏がインドに国外脱出した。報道各社の論調では、1ヶ月前に公務員採用枠の割り当て制度をめぐる抗議デモの発生に原因があるとされているが、イギリスの植民統治に遡る歴史的視点はみられない。そこで本稿は、イギリス統治下で導入された民主主義がナショナリズムによって歪められたことを明らかにする。


インド亜大陸は1849年にイギリス東インド会社の統治下に入り、1858年のインド大反乱を契機にインド帝国としてイギリスによる直接統治を受けることとなった。その際に個人主義や民主主義、資本主義などの西洋的な価値観や制度が導入され、公務員や技術者、医師、弁護士などの新しい職業が生まれた。その中でも公務員には軍人なども含まれ、イギリスがインド支配を進める過程で激しく戦ったシク教徒やグルカ族などが優先的に採用された。19世紀の中間層は現代で言うところの富裕層に近い概念であったため、公務員の採用枠は各コミュニティの間で争奪戦が繰り広げられた。


バングラデシュに話を戻すと、現在の国土が決定したのは1905年のベンガル分割令においてである。元々のベンガル地方はヒンドゥー教徒とイスラム教徒が共存していたが、カルカッタ(現在のコルカタ)に植民政府を置いたイギリスは、両宗派を対立させてインドの民族運動を抑え込もうとした。その結果、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育を掲げた急進派が反対運動を起こした。ベンガル分割令は1911年に撤回されたが、このときに成立した全インド・ムスリム連盟は東ベンガルでイスラム教徒が多数派になることを支持した。1949年にインドとパキスタンがイギリスから分離独立すると、バングラデシュは東パキスタンとして分離国家を構成した。しかし、西パキスタンからの経済的搾取などが原因となって独立運動が起き、1971年にバングラデシュが成立した。これはイスラム教徒のアイデンティティよりもベンガル人としてのアイデンティティが優先されたとも言われている。


このようなバングラデシュの歴史を考慮すると、今回の公務員採用枠に端を発するバングラデシュの政変は、イギリスの植民統治の恩恵であった民主主義の理念がナショナリズムによって変質したと言える。現在のインドにおいても、大学の入学枠や公務員、国営企業の採用枠には留保制度が取られており、後進諸階級(OBCs)や指定カースト・指定部族などに対して優先的に枠が割り当てられている。留保枠の存在は運用に際してカーストによる区別を認めることを前提としているので、留保制度は民主主義に反するという見解もあるが、社会的・経済的な差別を是正する措置としての理念は普遍的な価値を有している。しかし、今回のバングラデシュの件は、独立運動で戦った軍人とその親縁者に採用枠を割り当てるというものであり、論功行賞という意味合いが強く、本来の留保制度の意義からは逸脱した政策であったと言える。


したがって、今回の政変は本来の民主主義の理念が歪められた結果であり、欧米とは異なる社会文化状況にある南アジアの難しさが明らかとなったと言えよう。ハシナ首相はイギリスへの亡命を求めているが、国内で支持されていないハシナ氏を受け入れることをイギリスが難色を示しているとされる。イギリスの植民地支配から独立への道を歩んでいる南アジア諸国も、困ったときには旧宗主国に頼らざるを得ず、植民地支配の楔(くさび)からまだ逃れられていないことがわかる。

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