インド独立の父と言われれば、誰もがその名を聞いたことがあるマハトマ・ガンディー。インドのイギリス植民地支配下の時代に、大英帝国からの抑圧支配に非暴力主義で対抗した有名なインド人です。
インド北東部でも、重い課税などに苦しんでいた山岳地帯の先住部族達が、大英帝国に対して反対運動や独立運動を起こしていました。
33の異なる部族が暮らすと言われている多民族州マニプールでも、20世紀初頭から英国政府に強い対抗心を持つ者達を引導して反対運動を起こした人物がいました。
マニプールのFreedom fightersって誰?彼らが目指したものとは?
マニプールには、2人の代表的なFreedom fightersの名が至る所で見聞きされています。
ジャドナンが青少年期を過ごした時代は、既にマニプール州の主要な地域や山岳地帯はイギリス植民地支配下にありました。英国政府は、平野部のインパールを支配していたメイテイ族によるマニプール王国のメイテイ王をも管理下においていたと言われています。
ジャドナンは、他ナガ諸族の間でもキリスト教改宗の動きが活発になってきたのをきっかけに、イギリス植民地支配の影響力の大きさを実感し始めます。欧米文化や欧米宗教が山岳部族に浸透することにより、山岳地帯に生きるナガ諸族自らの伝統的慣習などが廃れていくことを恐れたのです。
また、山岳地帯の日々の暮らしは、イギリス政府の課税による大きな負担や植民地支配もろもろの法律によって、大変抑圧的なものと変化していった時代でもありました。
宗教的概念やナガ族の思想的運動から、徐々に軍隊を編成するイギリス政府への反対運動に変容していったジャドナンの活動に、いとこのラニ・ガイディンリウが加わることになります。
殺人罪で絞首刑にされたジャドナンの死後は、このラニ・ガイディンリウが反英国運動を引導していくことになります。彼女がこの運動に参加した時は若干13歳であり、若きFreedom fighterジャドナンが亡くなった時は15歳だったと言われています。
青春期真っ只中のこのFreedom fighterは、16歳で投獄され、以降インド独立後の1947年までを監獄で過ごしました。
この2人が生きた時代のマニプールは既に多民族州であり、たとえ同じナガ諸族の間でも違う部族(サブトライブ)同士の村と村の確執や、それぞれの共同体に対するの過去の憎しみや緊張感などが存在していました。
若きFreedom fighterたちは部族(サブトライブ)を超えての団結を目指して、遠方のナガ諸族の村を訪れて結束を促すなどしましたが、いくつかの部族は、彼らの主人としてイギリス人からジャドナンに取って代わるだけであるという理由で彼を支援することを拒否したと言われています。
ラニ・ガイディンリウは、彼女が監獄で過ごしていた時にインドの初代首相が彼女を訪れたという話が語り継がれるほど、インド政府と強い繋がりがあったとみなされ、ナガ諸族の中にはこれに対して嫌悪感を露わにしている部族もあり、彼女もまた部族間の垣根を超えての団結を成し遂げることは出来なかったようです。
多民族州マニプールに居住する山岳部族同士の衝突…。
ナガ諸族が抱える根本的な問題の1つに、村1つ1つがとても閉鎖的でかつ孤立していることにあります。
集落を成し始めた当時から、殆どの部族(サブトライブ)が1つの村を自分たちの部族のみで構成し、彼らの絶対的な王国のようなものと捉えてきたので、現在でもその名残りが残っており、他村の考えや部族に対して懐疑的です。
例えば、キリスト教が普及される前には村で起こった事件やいざこざは村で裁判があり、長老たちによって裁かれていましたが、ナガ諸族の人々にとって最大の処罰は「自分の村から拒絶、または排除されること」で、その概念は少なからず今でも受け継がれてるのだそうです。
さらに、ナガ諸族は、長い年月をかけて土地争いや権力争いを繰り返してきた歴史があり、たとえ同じ村内でも、同じ部族同士の異なる氏族間で権力争いに勤しんでいる村もあります。
しかし、ナガ諸族の間には1つの伝承があり、すべてのナガ諸族は中国の揚子江の時代に、朝廷から命ぜられた万里の長城建設の重労働から逃れるため、現在のインド北東部までたどり着いたと言われています。
彼らの言い伝えでは、マニプール州のMakhelという地域がナガ諸族がかつて1つの共同体として暮らしていた場所と信じられており、この場所からインド北東部各地やミャンマーなどに散り散りになっていったとされています。
Makhelで暮らしていた当時のナガ諸族は、現在のような言語や伝統的衣装、文化慣習などの違いがなく、1つの共同体として存在していました。
叶えられそうで叶えられない?部族を越えた「団結」。
Freedom fighter達が闘ってきた時代から100年の時が過ぎ、現在は21世紀。数多くの部族間闘争や反政府運動が繰り返されてきたマニプール州も、時代の流れには逆らえません。
グローバル化に伴い、インド経済の海外進出が活性化されるにつれ、インド中央政府によるインド北東部の経済的利益を追求する動きも活発になります。マニプールも例外ではありません。
インド北東部は周囲を中国、ミャンマー、バングラデシュに囲まれているその位置関係から、インド中央政府にとっては、政治的にも経済的にも目を背けることができない地域です。
モディ政権はAct East政策を掲げ、ミャンマーなどインドより東方の国々への影響力の拡大を目指しています。
そのパートナーに抜擢されたのが、まさに日本であり、2017年の日印首脳会談で、北東部での交通網の整備などにおける日印の協力が共同声明に盛り込まれました。
前回の記事でも注目しましたが、マニプールに開通した鉄道はミャンマーとの国境近くの街モレまで延長されています。他の東南アジア諸国との密接な貿易関係を築くためです。このような状況下、多民族州マニプールの住民が州の未来のためにそれぞれ団結していく意義はとても大きいと思います。
2019年12月には、グワハティにて安倍首相(当時)とモディ首相が首脳会談を行うことが予定されていましたが、当時、国籍法改正に反対したデモがグワハティやデリーなどで多発したため、安倍首相のインド訪問が取りやめにされました。
マニプール州でもインド独立記念日前になると、ナガ諸族がストライキを起こしたり、車両を燃やすなどの政府に対するデモが多発しています。それらの動きは、インド北東部の活性化や経済開発をまた退行させてしまいます。
インド独立から現在に至るまで、他州が経済的、社会的に成長する中で置いてけぼりにされてきたマニプール州。