「インドであって、インドではない」
さらに私がダラムサラで過ごすなかで、チベット人の性質について驚かされたことがありました。
ダラムサラとはどんな場所か?チベット人とはどんな人たちなのか?今回はそんなテーマで、私の実体験も交えてお伝えします。
ダラムサラとチベット人
ダラムサラはインド北部ヒマーチャル・プラデーシュ州に位置し、デリーからは車で12時間ほど。標高は1,700メートル前後と高く、山肌に沿って家が立ち並んでいます。
この街にはチベット人が多く住んでいますが、ではなぜ彼らはチベットからインドに来たのか?そこには悲しい歴史があります。
チベットはもともと独立した国でしたが、中国人民解放軍がチベットを軍事制圧したチベット動乱によって、多くの人命が失われました。
1959年にチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世がインドに亡命したことをきっかけに、多くのチベット人が後を追ってインドへ亡命。 インド政府はダラムサラの土地をチベット人たちに与え、今ではダライ・ラマ法王の住居や寺院、チベット亡命政府が設立され、多くのチベット人で街を形成しています。 |
現在ダラムサラを訪れると、「街」として人々は普通の暮らしをしているように見えます。チベット人のレストランやお土産屋さんがたくさんあり、なかにはオシャレなカフェも見られます。しかし、彼らは国を追われた「難民」なのです。
オシャレな恰好をしている若者でも話を聞くと、ヒマラヤ山脈を1か月かけて越えてきたという過酷な経験を持っている人も多くいます。家族で亡命してきた人や、家族はチベットに残したまま一人だけで亡命してきた人もいました。雪深いヒマラヤ山脈を越えてくるので、途中で命を落とす人もいるほどです。
チベット人がインドに亡命してきてから60年以上経過しているので、インドで生まれ育った2世、3世も増えてきました。しかし、チベット人はインド国籍を持てず、あくまでもインドには「仮」住まいをしているだけの状態です。
チベット仏教徒の信心深さ
悲しい歴史を持つチベット人ですが、彼らはみんな明るくとても穏やかでした。
そんな彼らを支えている大きなものに「チベット仏教」があります。
多くの人が数珠を身につけ、街中にチベット仏教の「タルチョ」が飾られています。
他にも「五体投地」「サカダワ」といったチベット仏教ならではのものがありますので、1つずつ紹介します。
チベット仏教のお祈り「五体投地」
五体投地とはチベット仏教のお祈りの方法です。
ダライ・ラマ法王住居の正面に位置するナムギャル僧院では、老若男女かかわらず、この五体投地を熱心に行っている姿が見られました。僧院では五体投地をするために人が横たわれるくらいの大きさの板がずらっと並んでいて、みんなこの板の上で五体投地をしてお祈りをするのです。
僧院には他にも「マニ車」が並び、人々はそれをまわしながら、なかにはブツブツとお経を唱えている人もいました。マニ車もチベット仏教のアイテムで、一度まわすと一度お経を唱えたことになるというものです。
僧院の中でマニ車をまわし終えると、今後は寺院をぐるっと囲む道「コルラ道」に行きます。コルラ道には、タルチョやチベット文字が書かれた石などがたくさんありました。普通の散歩道としても、歩いていて気持ちのいい場所です。
チベット人たちはこれらの行動やお祈りを、日常生活のなかで行っていました。
仏陀が生まれ、悟り、亡くなった日「サカダワ」
これは仏陀が生まれ(降誕)、悟り(成道)、亡くなった(涅槃)日で、チベット人にとって一年で最もありがたい日とされていて、チベット歴の4月15日(現在の5月頃)にあたります。
コルラ道に乞食が並んで座り、チベット人たちは早朝からお金や食べ物を配りながら歩くのです。サカダワで善行を積めば何十倍にもなって返ってくるとは言え、多くのチベット人が忠実に実行しているのを見ると、信仰心の強さを感じました。
モノ、お金なんでも分け合うチベット人
私がチベット人に感心した出来事に「モノやお金をなんでも分け合う」ということがあります。
ダラムサラに住んでいるチベット人は、余裕のない暮らしをしている人も多くいます。
そんなギリギリの生活をしているチベット人ですが、とても簡単にお金やモノを貸すのです。いえ、彼らのなかには「貸す」という感覚すらないようでした。
本人もいつもお金がなく困っているのに、たまたまお金が入ったときに、困っている友人に持っているお金のほとんどをポンと与えていた人がいました。なぜそんなことをしたのか聞くと「だって僕は今お金を持っていて、彼は困っていたんだよ。当然でしょ」とケロリと言います。
また、お金に余裕がないはずのチベット人が、ある時いきなりスマホを持っていたことがありました。(当時、チベット人でスマホを持っている人は少なったのです。)「それどうしたの?」と聞いたら、「親戚に借りた」と言います。チベット人はスマホやケータイですら、よく貸し借りしていました。びっくりしている私に「何に驚いているの?」と逆に不思議そうな顔で聞いてきます。
ある時、一人のチベット人が私にこうたずねました。
「なぜ日本人や西洋人は『自分のモノ』と、いろんなものを一人でキープしたがるの?」
この素朴な質問が、彼らの性質を表しているのではないでしょうか。
彼らには「自分の所有物」という感覚があまりないように見えました。お金もモノも「自分のモノ」ではなく、みんなで分け与えるもの。そうやってお金やモノが彼らのなかでぐるぐる循環しているようでした。
悲しい歴史を持ち、今も問題は解決していないチベットですが、そんな状況のなかでも彼らは豊かな精神性を保っているように感じました。このような人たちが暮らす街だったから、私はとても安心感を持てたのかもしれません。
ダラムサラでは、ダライ・ラマ法王の法話も時々行われています。インドの中のチベットを感じに、ぜひダラムサラを訪れてみてください。